創業45年の老舗企業が挑戦するイノベーションの定着化


シリコンバレーに新規事業開発の先例を求める日本企業のジレンマ

現在、シリコンバレーには過去最多の約800社の日本企業が進出しており、さらに多くの日本人経営者が視察に絶え間なく訪れています。シリコンバレーの日本企業は、かつての先端技術研究の調査研究から新規事業の創出へと舵を切っており、日本企業に絶え間なく届く変化への要請が色濃く表れています。

リーマンショック、東日本大震災の二度の落ち込みを経て、シリコンバレーに進出する日系企業数は過去最多となっている(出典:ジェトロ)
リーマンショック、東日本大震災の二度の落ち込みを経て、シリコンバレーに進出する日系企業数は過去最多となっている(出典:ジェトロ)

 

シリコンバレーは紛れもなく世界の新規事業を生み出してきたマザー工場であり、すでに年間約80兆円の事業がここから生まれています。国家の名目GDPと比較すると世界20位の規模に匹敵する経済圏です。シリコンバレーから誕生した新たな事業の旗手はGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)と総称され、いまや世界で最も大きい時価総額を誇る企業群となっています。彼らはプラットフォーマーとして圧倒的な支配地域を築き上げており、これまでのサイロでニッチな需要にビジネスを見出していた多くの大企業の土壌に進出し、既存のプレーヤーを駆逐している光景がいたるところで見られます。

これは日本企業にとっても例外ではなく、シリコンバレーに足を運ぶ経営者の多くは目に見えない危機感に苛まれています。ただ、過去60年以上を「モノづくり大国ニッポン」として、いいモノを作れば売れるという価値観でビジネスをしてきた多くの大企業にとって、いわば「企業が解くべき問題が分からなくなった」現代の競争環境は非常に辛辣であり、どう変容すべきかを見失っているのが本音に近いでしょう。往々にして、シリコンバレーでの新興企業の成功談は日本企業の参考にならないと言われます。これには日本企業が背負う既存事業の重圧があり、デザイン思考をはじめとした変化のフレームワークに親しんだ現地の新興企業の経験則は、日本企業には軽く表面的な美談にしか聞こえないのです。

ただ世界には、シリコンバレーのダイナミズムを取り込んで破壊的イノベーションを成し遂げた「老舗の」「外資系企業」が存在します。それがSAPです。SAPが生まれたドイツの事業環境の根源は日本と近しく、製造業を中心に右肩上がりの成長を続けてきたモノカルチャーです。両国はほぼ同等の労働生産性(一人あたりGDP)を持ち、GDPのおよそ3割が製造業を中心とした工業で占められています。また、労働法が発達しているために一つの企業に長く勤めあげる価値観が根付いています。これらは従前の右肩上がりの産業構造の中では非常に安定した体系だと見なされてきましたが、シリコンバレーに端を発するデジタルエコノミーがもたらす事業環境の変化には弱点となりうることに注意が必要です。SAPは、一時は日本企業と同じく既存事業のしがらみに苦しみながら、シリコンバレーのエコシステムを活用した新規事業創出に成功した企業として知られ、いまや多くの日本企業のリーダーが殺到する先行事例となりました。この点は以前の投稿に詳述していますので是非参考にしてください。

2017年には1625名の日本企業のリーダーがSAPシリコンバレーに殺到し、その先行事例に学んでいます(出典:SAP)

2017年には1625名の日本企業のリーダーがSAPシリコンバレーに殺到し、その先行事例に学んでいます(出典:SAP)

イノベーションを一過性の成功体験から継続して起こり続ける文化、そして定着化へ

SAPシリコンバレーを訪れる多くの日本企業の経営者の頭をよぎる疑問の一つが、「5年間で2倍の成長はすさまじいが、最も業績のよい期間を切り取った言説であり、本当にイノベーションが定着した先行事例とみなすことができるのか」というものです。これはSAP自身も注力してまさに取り組む次なる成長課題であり、すでにSAPは一時の大きな事業変革を終えて次なるフェーズに向かっています。つまり、イノベーションを一過性としてのものではなく、継続して起こり続ける文化として社内に定着させるという挑戦です。

Ycharts

今やSAPの時価総額(=市場からの企業価値の評価)は、IT業界の巨人IBMと比肩するほどに成長しています(YChartsデータより筆者作成)

イノベーションが定着した企業において、デザイン思考は「教科書」のような役割を果たしていると考えることができます。スタンフォード大学d.schoolの共同創始者であり、デザイン思考の名著「クリエイティブ・マインドセット」の著者であるデイビッド・ケリーは、イノベーションの創出に不可欠な想像力は誰にでも存在する能力だと定義しました。多くの人が想像力を先天的な能力として体得を諦めるところを、後天的なイノベーションの体系としてデザイン思考を提唱したのです。デザイン思考は体系的に見栄えよく実践がまとめられているフレームワークである一方、そこに存在するだけでは社内の定着を担保する施策としては物足りないということが「教科書」の二面性を物語っています。これに対して、社員が必ず「教科書」を読破し、定着されたことを担保するための仕組みをSAPが運用し、まさに第二の変革と呼べる大きな挑戦に繰り出しているのです。

SAPがイノベーションの定着化に向けて社内で展開する仕組み(出典:SAP)

SAPがイノベーションの定着化に向けて社内で展開する仕組み(出典:SAP)

イノベーションの素養のある新入社員を採用し、育成するための企業内大学「SAP Academy」

先ほどの教科書の例を引き継げば、いくら教科書を用意しても字が読めない生徒は学ぶことができません。このためSAPでは、従業員の「イノベーションにおける素養」を非常に重要視しています。今後自社内でのイノベーションの定着化を目指すSAPの鍵の一つがSAP Academyと呼ばれる新人研修にあります。

今後10年以内に、ミレニアル世代(1982年以降に生まれた世代)は世界の労働人口の75%を占める、という統計があります。これはあらゆる業界にとって顧客が変化することを意味しています。新世代の感性を素早く経営に引き上げることは次代の経営の必要条件と言え、SAPにとっても例外ではありません。また、SAPでは、2020年に全営業系社員の20%が定年に差し掛かると考えています。いかにミレニアル世代に投資をし、早く経営に携わる仕事に就けるかが、SAPの継続的な成長を左右していることが分かります。

SAPは企業内大学の運営で新人の素養を高め、イノベーションの再現性を担保しようと努めている(出典:SAP)

SAPは企業内大学の運営で新人の素養を高め、イノベーションの再現性を担保しようと努めている(出典:SAP)

SAPに新卒社員として入社した世界中のタレントは、この延べ3年間のビジネストレーニングを経て、いわばイノベーションの基礎体力を養っていきます。この中心になるのが、最初の6カ月間をかけてシリコンバレーで行う一斉研修です。詳しくは、シリコンバレーでのビジネス研修と各国でのOJTを繰り返し、実践の中で反復的に学習を行う体系を設けています。SAPはこのためにシリコンバレーに常設の企業内大学を有し、各国の一流社員を中心に構成される20名超の専任のトレーナーを就けています。

SAP Academyで提供されるプログラム。非常に広範な能力の訓練であることが伺える(出典:SAP)

SAP Academyで提供されるプログラム。非常に広範な能力の訓練であることが伺える(出典:SAP)

2014年のプログラム開始後、延べ620名超の新入社員がこのプログラムを卒業し、ビジネスの一線で通用する活躍を見せています。興味深いのは、このプログラムを卒業した入社1年目~3年目の社員は、その他すべての年次の社員の平均よりも、定量目標の達成率が高いほどの活躍だということです。2016年には、この卒業生がリードした営業案件から350億円を超える収益が生まれました。この点からも、SAP AcademyがSAPの新しい事業と成長のドライバーになっていることが分かります。

マジョリティ層の社員のマインドセットを変革するための人事評価制度「SAP Talk」と「Catalyst」

次に紹介するのがSAP Talkという新しい人事評価制度です。SAP社員のマジョリティは中途入社であり、上記の「教科書の読み方」を教わっていない社員です。多くの社員は即戦力として採用され、本人が関与しにくい定量目標(営業のノルマなど)の達成率が評価の多くを左右する体系をとっていました。しかし、こうした短期的な成功のみに重みをおいた評価の先には前述の構造改革はないものと判断し、2017年から新たな評価制度を導入してきました。

2017年から新しい人事評価制度をグローバルで展開している(出典:SAP)

2017年から新しい人事評価制度をグローバルで展開している(出典:SAP)

SAP Talkでは、これまでの年度末の一斉評価から手法を一新し、頻繁にマネージャーと社員が目標を見直す体系を取っています。目標は年度内に何度も変更されるものであり、可変の目標に対するアプローチとプロセスで社員を評価していく着想です。ベテランの社員には教育ではなく評価でもって「教科書の読み方」を測り、育てていくことに取り組んでいます。

同時期に始まった、SAP Catalystでは幹部候補の選抜の仕組みを一新しました。こちらも短期的な業績評価に基づいていたものを、「イノベーターであるか」という一点で再評価する体系です。幹部候補生の選抜は絶対評価に基づいて行われ、個人の能力とマインドセットが追いつけば、等しく更なる成長の機会が提供されることがコミットされています。このように、SAP社員のボリュームゾーンからもイノベーターを育て、社内でのイノベーションが定着するように改革が進む様子が見受けられます。

自律的なイノベーションの発揮の場を提供する「SAP.io イントレプレナーシップ」プログラム

最後に紹介するのが、まさにこれらの社員がデザイン思考を活かしながらイノベーションを起こす場を提供するプログラムです。教科書の例を引き継げば、教科書を読める生徒が教科書を手にしたとしても、それを発揮する場がなければ定着は図れないということです。この点において、SAP.ioのイントレプレナーシッププログラムは、社員が実践的にイノベーションを発揮する場を提供している社内ベンチャー制度です。

2015年から社内イントレプレナーシッププログラムを展開し、社員の裁量で自律的にアイデアを応募することができる(出典:SAP)

2015年から社内イントレプレナーシッププログラムを展開し、社員の裁量で自律的にアイデアを応募することができる(出典:SAP)

Venture Studioと呼ばれるインキュベーションプログラムがその代表です。全てのSAP社員は、所属する組織や業務の区分なく、いつでも自由に新たな事業アイデアを提出することができます。Innovation Managementと呼ばれるツールが公開されており、自らのアイデアを提出することに加え、他の同僚が提出したアイデアを参照し、コメントすることが許されているのが特徴です。つまり、発明家やイノベーターの素養がない社員でも、同僚の優れたアイデアに相乗りし、イノベーションに貢献することが推奨されています。

社内のアイデアが共有され、ブラッシュアップされるInnovation Managementツール(出典:SAP)

社内のアイデアが共有され、ブラッシュアップされるInnovation Managementツール(出典:SAP)

2017年には1年間で1,800人の社員で構成される1,000件の事業アイデアの応募があり、このうち60チームが2カ月間のメンターとともに実際の事業開発に取り組みました。単なるテクノロジーメンターだけでなく、ベンチャーキャピタルモデルに倣ったデリジェンスノート作成やレビュー支援に及び、SAPの経営陣が参画するインベストメントコミッティーを運用する手厚いサポートを提供しています。このうち3チームはSAP.ioのインキュベーションの元でスタートアップ事業として分社化することに成功しました。

このうちの1社であるRuumは、SAP Knowledge Workspaceと呼ばれるスマートダッシュボードの開発チームから分社化した社内ベンチャーです。メール、タスク管理ツール、ガントチャート、ドキュメント管理ツールなど多岐にわたるプロジェクト管理ツールを、非常に軽いクラウドベースのインターフェースにまとめるものです。SAP社内ではすでに4,000人が本番利用を行っており、Nivea(バイヤスドルフ社)、Coca Cola社などでも利用が始まっています。エンタープライズアプリケーションではあまり見られない、当初は無償で機能が使えるフリーミアム方式のビジネスを取っているのも特徴です。

社内ベンチャー制度が生んだスタートアップの1社、Ruum。社員はこの事業専任で独立した(出典:SAP)

社内ベンチャー制度が生んだスタートアップの1社、Ruum。社員はこの事業専任で独立した(出典:SAP)

またSAP.ioでは、こうした常設の社内ベンチャー制度のほかに、定期的なインキュベーションイベントを開催しています。SAP Asia Pacific地域では、SAP.ioとのパートナーシップの元に毎年1BL (One Billion Lives) という地域内アイデアソンを行っています。同地域のSAP社員が10億人のアジア人口に寄与する事業アイデアを投稿し、投票する社会貢献イニシアチブです。ファイナリストに選ばれたプロジェクトには予算とメンターが配備され、実際の事業化に対する投資がなされる仕組みです。

2016年にはSAPジャパンから「my震度」プロジェクトがファイナリストに選ばれました。これは使用済みスマートフォンを簡易震度計として利用する社会貢献活動で、地震計のトップメーカーである白山工業社との協業のもとに事業化されました。2011年の東日本大震災に学び、手の届きやすい震度計を全国に配備し、有事の被害を最小化するプロジェクトです。

my震度プロジェクトは日本の大きな社会問題の解決に挑戦する社内ベンチャーの一つ(出典:SAP)

my震度プロジェクトは日本の大きな社会問題の解決に挑戦する社内ベンチャーの一つ(出典:SAP)

動画:SAP Japan – Transforming society with ICT 日本の社会を変革するIoT(5:21)

日本企業が抱える事業コンテクストに沿った変革への挑戦を

上記で紹介したプログラムはいずれも、SAP自身が過去の成功に飽き足らず、我々の文化として取り入れようと意図的に組み込んでいるプログラムの数々です。前述の通り、ドイツは日本と近しい事業コンテクストを持った国の一つであり、SAPにとってもこの変革は容易な道のりではありませんでした。過去SAPが老舗IT企業としてトラディッショナルな既存事業に変革の芽を苛まれていたことを考慮すれば、意識的で体系的なプログラムの数々は大いに日本企業の変革の参考になるでしょう。そして、イノベーションは一過性の成功ではなく、継続して体系的に取り組むべき文化であるというSAPの言説は、日本の大企業が進むべきイノベーションの方向性に一定の示唆をもたらすのではないでしょうか。